2011年




ーー−5/3−ーー 慌ただしかった2ヶ月


 3月11日から50日余り。我が家はこれまでになく慌ただしかった。

 まず、3月15日に次女が仙台から戻った。仙台を脱出するのも大変な事だったらしいが、幸いにも高速バスのチケットが取れ、新潟経由で長野に入った。私が長野駅前のバスターミナルまで迎えに行った。帽子とマスクで顔を覆っていたので、一見して本人だと分からなかった。当時の仙台市内では、そのようなスタイルが普通だったそうである。

 仙台から新潟までのルートは、当初山形経由とされていたが、東北自動車道が一部通れるようになったので、急遽福島経由に変わったとのこと。それで乗客の一人、自称ドクターの女性が、放射能の危険があるから戻って山形へ向かえと騒ぎだし、添乗員との間でもめたそうである。数人の乗客が説得して、騒ぎは収まったとのことだが。

 3月19日には、長女夫妻が茨城からやって来た。長女は地震当日、東心の勤め先で一晩を過ごし、翌日取手市の自宅へ帰宅を試みた。しかし列車がストップして動けず、迎えに来た旦那の車で都心を離れたが、絶望的な渋滞につかまり、家へ着くまで十数時間かかったそうである。

 旦那は茨城県内の会社に勤めている。地震で職場が少なからぬ被害を受け、また原発の状況も心配だったので、一時的に大阪へ出張することになった。それで、三連休を移動日に使い、夫婦で穂高にやって来た。この移動も、道路状況が不安定で、夜通し走り、我が家に着いたのは深夜1時だった。

 連休明けに、旦那は大阪、長女は東京へ移動。長女は勤務先に退職を告げた。新婚生活が一年余り過ぎ、往復4時間の通勤生活に無理を感じてきたところに、震災の混乱が背中を押した形になった。28日に長女は再び我が家へ戻った。

 娘二人が実家に戻ったのを知り、大阪の長男も、仲間入りをしようと、4月になって帰ってきた。かくして、久しぶりに子供全員が我が家に集まった。未曾有の災害で、亡くなった方、行方不明の方、避難所で不便な生活をされている方、大勢の人が苦しんでいる時に、申し訳なくも感じるのだが、我が家は一家団欒の時を過ごすことになった。

 次女が通う大学は、震災の影響で、新学期のスタートは5月の連休明けと発表された。だから4月一杯は我が家に居ても良かったのだが、ついに退屈したのだろう。中旬になると、部活の仲間と旅行へ出掛け、そのまま仙台に戻った。

 長男は一週間滞在して、大阪へ帰った。

 最後に残った長女は、大阪の出張を終えた旦那と共に、4月30日に茨城へ帰って行った。結局長女は1ヶ月余り滞在したが、これほどの長期間を一緒に過ごしたのは、高校を卒業して以来、およそ10年ぶりのことだった。

 子供たちと共に日々を過ごし、また子供たち相互のやりとりを見て、それぞれが成長しているのを感じた。ささやかだが、こういうのを幸せと呼ぶのだろう。このような時期だからこそ、平穏無事に暮らす幸せが、ずっしりと重く感じられる。





ーーー5/10−−−  GWの北アルプス登山


 
連休に、北アルプスの燕岳へ登った。その一週間ほど前に、千葉の友人I君から、「遊びに行きたい、山登りはどうか」との打診があった。その話が膨らんで、この計画になった。I君が誘った二人の友人も、参加することになった。

 車で来るというので、途上手頃な山へ登って足慣らしをしたらどうかと提案した。塩尻市の南部にある霧訪山(きりとうやま)。私は列車で向かい、塩尻駅前で合流した。登り1時間ほどの小さな山である。しかし、山頂からの展望は素晴らしいとの評判。その展望を楽しみに行ったわけだが、あいにく霞がかかったような天気で、遠くを望むことはできなかった。

 下山してから車で移動。安曇野で温泉に入り、我が家へ。その晩の宴会は早めに切り上げて、翌朝に備えた。

 5月3日。4時半に起きて出発。中房温泉の駐車場はほぼ満杯だった。かろうじて隅にスペースを見つけて駐車した。これでも、例年よりは少ないようだ。連休中は、路上駐車がかなり下まで伸びると聞いたことがある。

 登りはじめてしばらくすると、雪が出てきた。合戦小屋の手前でアイゼンを着けた。私は必要を感じなかったが、他のメンバーが着けると言うので、付き合った。ちなみにI君はこの登山のために、アイゼンとピッケルを新調した。

 登山者は多かった。行列になるほどではなかったが、上に下に、点々と登山者が見えた。年齢的には、やはり中高年が多かったが、夏山ほど比率は高くなかったようだ。

 合戦の頭を過ぎて、燕山荘が見えるようになってから、O君とI君が疲れてきた。F君は普段からランニングをしており、先日の東京マラソンを3時間10分ほどで走ったくらいだから元気。私も裏山登りの成果が出て、余裕があった。

 燕山荘に着き、前庭で昼食を取った。この先は、燕岳の山頂を空身で往復するだけ。疲れた二名は「ここで待っている」などと言ったが、なだめすかして一緒に山頂へ向かった。

高曇りの天気だったが、眺望は良く、遠く近くの山々を眺めて満足した。


 燕山荘に戻り、コーヒーを沸かして一服しようとしたとき、突然テント場の方から、「キャーッ」という声がした。その方を見たら、一つのテントが風で舞い上がり、東側の急な斜面に落ちて行った。東側は雪庇が張り出しているので、どこまで落ちて行ったか見ることも出来ない。

 おやおや、お気の毒に、と我々は同情したわけだが、テントの持ち主は燕山荘の従業員に相談したようである。従業員の若者が一人、雪庇の無いところ(そのポイントすら、部外者には分からない)から谷へ降りて行き、しばし後にテントを抱えて戻ってきた。その手際の良さに、我々は拍手を送った。

 山荘を後にし、登ってきたルートを下った。私は燕岳の山頂に向かった時点でアイゼンを外していたが(邪魔だったので)、この下りは中途半端に緩んだ雪が滑りやすかった。スリップしたらみっともないので、気を使った。他の連中は、第二ベンチでアイゼンを外した。

 無事に中房の登山口に戻りついた。ここから駐車場まで、舗装道路を10分ほど歩くのだが、いつもこれが辛い。駐車場から少し下ったところに有明荘がある。そこで温泉に入って帰路に着くといういつものパターンを、今回も踏襲した。

 天気もまずまずで、楽しい登山だった。思いがけなく本格的な雪山に登れて、客人三人は嬉しそうだった。私にとっても、ゴールデン・ウイークの北アルプス登山は久しぶりであった。私の場合、わざわざ混雑する時期に登る必要も無いという状況ではあるが、一人ではなかなか思い切れないところ、誘って貰ったおかげで実施できて、やはり嬉しかった。



 ところで、以前も書いたことがあるが、登山者のアイゼン使用について、いささか疑問を感じた部分があった。しかし、時代は移り、登山の世界もスタンダードが変わってきたようだから、もう触れないことにしよう。




ーーー5/17−−− 電子キーのトラブル


 十数年前、ドイツから来た客人を案内して、松本の街を回った。突然その男は電気屋へ連れて行けと言った。何故かとたずねたら、カメラの電池が切れたから購入したいと。デジカメではなく、フィルムカメラである。それが、電池が無くなるとシャッターが作動しない。写真が撮れないのだ。

 私がその当時使っていたカメラは、一時代前のものだった。電池は入っていたが、それは露出を測定するためのもの。シャッターもフィルムの巻き上げも、全て手動だった。電池が無くなっただけで写真が撮れないなどということは、ありえなかった。そのドイツ人のカメラも日本製だったが、カメラがそんなに不便なものになってしまったのかと、驚いた記憶がある。

 その十数年前の出来事と似た様な驚きが、最近またあった。

 長女の旦那が大阪へ1ヶ月ほど出張している間、車を我が家で預かった。事務所の下のスペースに置いて、一切動かさなかった。とはいえ、バッテリーが上がるといけないので、エンジンをかけて暫らくアイドリングをするという作業を、二回ほど行った。

 旦那が戻り、長女と共に茨城へ戻る日、車に乗ろうとした二人が、なにやら騒いでいる。電子キーが作動しないのである。ボタンを押してもドアのロックが解けない。車のバッテリーが上がってしまったのか?

 電子キーには、機械式の鍵が仕込まれていた。それを使ってドアを開けたら、車内の電気系統は正常に作動した。原因はバッテリーではないようだ。となると、電子キーの電池切れか。

 取扱説明書によると、電子キーの電池は1〜2年で切れるとのこと。使用状況から判断すると、その可能性は十分にあるということだった。

 「電池交換は、難しい事ではないが、事故の恐れもあるので、自動車屋に頼む方が良い」と書いてあったが、そんなことを言ってる場合ではない。電子キーを分解したら、ボタン電池が一つ入っていた。こんな小さな電池が原因で、車が動かないのだ。これもまた、新鮮な驚きだった。

 すぐに私の車でホームセンターへ行き、電池を購入した。家へ戻り、電池を交換したら、電子キーは正常に作動した。およそ1時間遅れで、娘夫婦は出発した。

 試しにテスターで当たってみたら、使用済み電池の残量はほとんどゼロだった。電子キーは、常時車体との間で信号のやりとりをしているので、電池の消耗が大きいそうである。

 便利なものほど、アクシデントが起きると弱い。それにしてもこの電子キー、設計思想にいささか問題があるように感じた。これほど大事な設備なのだから、電池残量の低下をアラームで示すくらいは必要だと思う。また、機械式のキーが付いているのだから、それでエンジンを始動できるような仕組みはできないのか。電池切ればかりでなく、電子キーの回路が故障するという事だってあるだろう。電子キーを開けたら、内部に微細で複雑な電子回路が見えた。

 ところで、電池を交換して一件落着した後、取扱説明書の中に、電子キーの電池が切れた場合の対処法が見つかったと娘が言った。電子キーに付いているメーカーのシンボルマークを、スターターボタンの近くへかざして、認識されたらボタンを押せばエンジンがかかると。ただし、電子キーの状態によっては、機能しないこともあると書いてあったそうだ。出先でトラブルになったとき、そんなシステムに頼るのは不安だろう。

 娘夫婦は、予備の電池と、電子キーを分解するためのドライバーを車に積んでおこうと話していた。




ーーー5/24−−− 土足事件


 
だいぶ前の事であるが、外国人木工家数名を連れて、国内の林業や木工の現場を視察する企画があった。私も通訳を兼ねて参加させてもらった。

 木曽の曲げわっぱ工房を訪れたときのこと。作業場を見学した後、座敷でお茶を頂いた。外国人一同は、いずれも日本の風習に疎かったようである。靴を履いたまま座敷に上がってしまった。日本チームはもちろん靴を脱いで上がった。一つの部屋の中に、靴を履いた外人と、素足の日本人が存在すると言う、奇妙な光景になった。

 本来なら、座敷に上がる時点で、日本のやり方を説明するべきだったろう。そうすれば、外人たちも素直に従ったはずだ。しかし、こういう場面では時としてタイミングを外してしまう。言いだす前に事態が進行し、土足で立ち入った事実が発生してしまうと難しくなる。注意をすれば、相手に恥をかかせ、面目をつぶすことになりはしないか。それが、言い出す勇気を萎えさせる。亭主の曲げわっぱ職人は、「外人さんはご存じないのだから、別にいいですよ」と言う感じでニコニコしていた。それを見て余計に気まずく、居たたまれなく感じた。一方の外人チームは、何も気付かずにご満悦で、茶を飲み、楽しそうに過ごしていた。

 工房を後にして、次の場所に移動する車の中で、私はドイツ人のS氏に、英語で先ほどの事態を説明した。本当は靴を脱いで上がるものなのですと。するとS氏はにわかに厳しい表情になった。そして、「なぜその場で言ってくれなかったのか」と私を責めた。私が「注意をすると角が立つと思い、黙っていた」と弁明し、さらに「日本人は、外国人に対しておおらかだから、気に病む必用はない」などと言った。するとS氏は「それは違う」と言う。

 「靴を脱ぐべき場所に土足で上がる。それはまともな状況ではない(氏は not fine と言った)。それを承知で、あなたは注意をしてくれなかった。我々は知らない間に、日本の作法に背くという恥ずべき行為をやってしまった。あの時に言ってくれれば、すぐに非礼を詫び、靴を脱いで恥を消すことができただろう。今となっては取り返しがつかない。我々は、理性に基づき、誠実な行動を取りたいと願っているが、あなたはそのチャンスを与えてくれなかった。そのことを、とても残念に思う」

 日本的な「気遣い」、「もてなしの心」が裏目に出たと言えば聞こえが良いが、事の本質はもっと深い所にあるように思われた。言いにくい事でも、言わなければならない事ははっきりと言う。しかし、相手を傷つけないように配慮をする。そして何よりも、相手の人間性に信頼を置く。そういうことがどうも苦手な、日本人である。

 ところで、その翌日の晩だったか、旅の一行はある木工会社の社長が所有する別荘に宿泊した。古い民家を移築した建造物で、木工関係の一団が一晩を過ごすのに相応しいものだった。所有者の好意による提供だったが、外人組はその事情を知らなかった。ただの旅館と勘違いして、「設備が今一つだな」などと言う、不満げな声が聞こえた。

 私はS氏を呼び、事情を説明した。そして、提供者の好意に気付かぬまま過ごしては not fine だから、他の連中にこっそり伝えてくれと頼んだ。S氏はその事実に驚いたふうだったが、よし分かったと言った。直後、さりげなく他のメンバーのところに行き、コソコソ話を始めた。離れていたので、どういうふうに話したのかは分からない。だが、メンバーたちは、S氏の話を聞くうちに表情を変えた。

 夜になり、オーナー氏が主催した夕食会が行われた。調理施設は無いので、仕出し弁当であった。それでも、外人チームは妙に機嫌が良く、建物や調度品を褒め、オーナー氏を持ち上げた。そして、次から次へとヨーロッパのお土産を、これは奥様へ、これはお嬢様へ、などと言ってプレゼントした。旅の疲れも吹き飛んだような、明るく楽しい雰囲気のパーティーになった。オーナー氏も嬉しそうだった。

 うまくやってくれたS氏に、私は感謝したが、一本取り返したような気持ちにもなった。 

  




ーーー5/31−−− 我が家のウォール・キャビネット


 画像は、我が家の台所に設置してあるウォール・キャビネット。中にはコーヒー道具が収納されている。扉を開けると、コーヒーの良い香りがフワッと湧き出てくる。

 実はこの品物、技術専門校に通って居た頃、松本の市営住宅の四畳半の部屋で作ったものである。電動工具は一つも無く、手加工の道具も最低限。しかも、道具の使い方は、本で知った程度の自己流。そんな状況で製作した。

 材木は、ホームセンターで購入した。行きはバスだったが、帰りは材木を肩に担いで歩いて帰った

 今となって見れば、精度に難はあるが、一応組手加工(ダブテール・ジョイント)で作ってある。扉は凸になっている。三枚の板を、斜めに矧いで作った。取っ手も材を削って作った。それなりに意匠を考慮した作品である。

 既に20年以上経つが、手直しの必要が生じたことは一度も無い。壊れることも、狂うこともなく、毎日の使用に耐えている。

 ウォール・キャビネットは、国内ではあまり普及してないようだが、欧米の家庭では一般的に使われている。建物の壁に固定するという点が、特異な家具である。しかし、造り付けの家具のように、実用目的だけのものではない。部屋の雰囲気を演出する、アクセント・ファニチャーの性格を持つ。

 実用性という面では、中に何を収納するかで変わってくる。とかくこういうものには、飾り物的な品を入れてしまう傾向がある。そうすると、扉を開ける機会が少なくなり、中に何が入っているかも忘れてしまうくらいになる。そういう使い方でも構わないが、実用性を楽しみたいと思うなら、実用品を収納するのが良い。

 アクセント・ファニチャーとしての性格と、実用性が上手くバランスすると、楽しい家具として定着する。我が家におけるこのウォール・キャビネットは、まさにそのような位置付けとなっている。

 ところで、日曜大工でも、その気になればこの程度の品物を作ることができる。木工に興味のある人なら、チャレンジしてみる価値はあるのではないだろうか。